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「れる」「られる」の語法


「ご覧になられる」


この言葉を聞いておかしいと思った方の耳は正常です。
何がおかしいかというと、「ご覧になる」に助動詞「れる」がくっついていることです。
ここまでは問題ないと思います。
ところで、これは「何が」問題でしょうか。たいていの場合は、「これは二重尊敬だから間違いだ」とご説明になる方が多いです。確かに、二重尊敬は古来より天皇・皇后などに対してしか使いません。
しかしながら、これを尊敬としてとるには決定的な間違いがあります。古典を読んでいらっしゃる方はお気づきかもしれません。





助動詞「れる」「られる」には二重尊敬の語法自体がないのです。
つまり、「れる」「られる」の『主語が実際には動作していない』という基本用法---受身、自発、可能のうちのどれかになってしまいます。それで意味を取ると意味も通じないし、かろうじて通じても主客が逆転していたり、「誰を尊敬しているんだ」ということになってしまいます。


二重尊敬は天皇・皇后にしか使いませんし、(ほとんど使いませんが)使うとしても「せる」「させる」を使って「見させなさる」となります。
ただし、「おっしゃる」の語源である「仰せらる(仰される)」は例外です。「仰す」という言葉はもともとは「命令する」という意味で尊敬語でもなんでもありませんでした。それが、この人の言ったことの行間を読まなければならない、たとえば「鼻が痒い」と言ったら召使の人が鼻紙を持ってくると言ったように、言ったことすべてが「命令」に聞こえるため、いつしか「言う」の尊敬語になり、「仰せらる」という言葉だけそのまま残ったのです。


そうでなくとも基本的には「れる」「られる」の尊敬用法は使わないほうがいいです。というのも、数ある尊敬用法(「お〜になる」など)の中では敬意が最も低い表現であり、(何もつけないよりはましですが)「自分と同程度か少し上」の敬意しか表すことができません。